「アイデンティティ」の揺らぎ。ありのままの自分をだすのが怖い⁉
アイデンティティとは、自分らしさを形作る中核となります。過去・現在・未来を通して、自分は同じ「私」であるという確信を意味します。簡単に言うと「自分はこういう人間だ」という自分自身の認識のことです。
でも、最近の社会の変化のせいなのか、アイデンティティの意味づけが揺らいできたと感じています。
こんにちは、日本セルフエスティーム実践協会(JSELジェイセル)の小西です。
アイデンティティは、自分の外側の部分と内側の部分の要素を揺らぎながらも一貫した文脈へと収束させていこうというものです。そうすることで、日々のストレスや困難に対する耐性を高め、周囲の人々とより深い人間関係を築く土台となり、セルフエスティーム(自己肯定感)が築かれ自信となります。
だからこそ、将来のキャリア形成において、「自分とは何者なのか」という問いに対して、自分らしい方向性を見出すための重要な羅針盤となってきたのです。
しかし現代は、IT化やグローバル化によって、個人の役割や価値観が多様化してきた。SNSでの対人コミュニケーションの変化、リモートワークによる働き方の変化など様々な場面で、自己のアイデンティティの在り方もまた揺らいでいるようです。

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アイデンティティの揺らぎとして見えていること
2024年時点で、15歳~64歳の引きこもり層が146万人を超え(内閣府の調査に基づく)、2024年度小中学生の不登校数は35万人を超えている。小学生(全学年)で約137,000人、小学1年生の不登校は約10,000人規模となっている。
いま、小学校1~2年生の不登校が増えている。
私は、この小学校の低学年の不登校数が10年前の7倍と知って、驚きと同時に、社会変化が影響しているのではと思いました。中学受験など子供の負担も影響していると考えています。
不登校や引きこもり層は、価値観の多様性によって、何を考えているか分からない他者に対して適応できないために、自分に自信が持てず人間関係を閉ざしてしまった可能性が高いと思います。たしかに自分と他者が向き合って対峙する経験が少ない現代において、自分がどのように他者と関われば良いかが分からず、大きな壁を前に立ちすくんでしまったのでしょう。当然、アイデンティティは確立せず、セルフエスティームも育ちません。
社会の変化によって、「いじめ」という言葉が生まれた。
紐解くと、1960年代ごろ、悪ガキ、喧嘩というのはありました。子ども同士の力関係による喧嘩は、あくまで個人の性格や振る舞いを指す言葉だった。それが時代と共に、教師や学校に対する反抗が校内暴力や、集団無視(シカト)に変化していった。
そして、1980年以降、「いじめ」という言葉が日本中の誰もが知ることとなった。集団による心理的な攻撃になって、暴力よりも陰険で精神的苦痛が強調されてきた。
不登校が増えてきた要因を考える
いつのころからか学校の運動会での100メートル走で「みんな一番」ということで手をつないで一斉にゴールという記事を読んだことがある。そんな教育の影響なのか、「みんなと同じであること」が重視され、少しでも目立つ行動や空気が読めない行動をとると「制裁」の対象になりやすくなった。いじめる側は「空気を乱した」という大義名分で「制裁」することが成立しやすくなる。
かつては放課後や帰宅後は学校の人間関係から解放されたが、現在はLINE等のグループを通じて24時間つながっている。学校の運営を楽にするために活用したSNSだろうが、これにより、一度ターゲットになると心は休まる時間がなく、精神的なダメージが深刻化し、不登校となってしまうのだろう。
このような状況では、いじめられる側だけでなく、周りの子どもたちも自分のアイデンティティを確立することはできません。
日本では学級担当性が強く、同じメンバーで長時間過ごすことが多く、教室での評価が「自分の全価値」になってしまう。クラスのひとり一人に気を遣い、その場をそつなくクリアして目立たず弱みを見せないように過ごすことが重要なのです。セルフエスティームを守るために、自分と周りを調和させることにエネルギーを使っている。
さらに、学業だけでなく塾や習い事など多忙な生活の中で子供は心の余裕がなくなり、一方的で歪んだ力が働きやすくなってしまうのです。
↓引用文献<土井 隆義『キャラ化する/される子どもたち』 株式会社 岩波書店>から、抜粋。
今日の若い世代は、アイデンティティという言葉で表されるような一貫したものでなく、「キャラ」という言葉で示される断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。アイデンティティは、幾度も揺らぎを繰り返しながら、社会生活の中で徐々に構成されていくものですが、キャラは、対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても、生まれ持った人格特性を示す内キャラにしても、出来上がっている固定的なものなのです。したがって、その輪郭が揺らぐことはありません。
不確実社会になる前に培ってきた安定した価値の物差しがあった「アイデンティティ形成」ではなく、いまは変容して「キャラ化」になった。
多様な生き方が認められるようになった今日の社会では、場の空気を敏感に読み取り、自分に対する周囲の反応を探っていかなければ、自己肯定のための根拠を確認しづらくなっています。昔のような普遍的な物差しが無くなったことで、身近にいる「具体的な他者」からの評価に依存するようになっているのです。
じつは、その親も多様性の時代を活きてきた。
この不確実の時代は30年以上続いており、親もまた正解を持てないままキャリアを築いてきました。そういった意味では、親も子どもも世代のギャップはあまりなく、ある意味、気持ちが分かり合える関係といえるのです。
友だちのようになんでも対等に語り合える親子関係を望む大人が増えているそうです。
たしかに街中で、姉妹のように同じファッションでショッピングしている親子や、姉弟のように仲良くレストランにいる親子は、めずらしくありません。
しかし、この友だち関係とは、対立を回避することを最優先する関係といえるのです。
子どもと友だち関係であることを重視する親は、仲が良い関係を保っていくために本音をぶつけ合うことを避けようとします。子どもと良好な関係を保っていくためには、物分かりの良い親を常に演じていなければならないと考えているようです。
ある事例があります。引用文献<土井 隆義『キャラ化する/される子どもたち』>より
中学生の娘を持つ親が、携帯の利用料金が高い理由を子どもに問い詰めたところ、逆に子どもを怒らせてしまったので、それ以来は直接ものを言うのを止め、その代わりに娘のネット上に開設しているプロフをひそかに読んで、様子をうかがっているというのです。
逆に、子どもに虐待を繰り返す親もいるのも事実だそうです。対等である子供が期待通りに動いてくれないことにいら立ち、手を出してしまうということなのでしょう。
こうしてみると、物分かりの良さそうな親たちの態度は、子どもたちと同様に、親たちもまた確固たる価値観を自ら内側に持てず、そのために大きな不安を抱えていると考えられます。
自己肯定感の基盤として人間関係に依存しがちな人々が、世代をまたがって増えているのでしょう。子どもの内部で起きているのと同じ事態が、すなわちキャラの過剰な演じあいや押しつけが、親子の間にも起きているのです。
子どもと対話をするとき、なぜ物分かりの良い親になろうとしているのでしょうか。子どもが何を考えているのか分からないのであれば、一人のヒトとして聞いてみることから始めても良いのではないかと思うのです。
もしかすると、親自体が「良い子」として適応しようとしているのかもしれません。 子どもの期待に応えようと無理をして自分を抑え込み、ある日突然エネルギーが枯渇(バーンアウト)してしまうケースも生まれるでしょう。
または「学校は行くのが当たり前」「社会のルールを守るべき」という正義感や道徳観が強く、それが無意識のうちに子どもへのプレッシャーになってはいけないと、自分を抑えているのかもしれません。
怒り、悲しみ、弱音を表に出すことを良しとしない家庭では、子どもが自分の「しんどさ」を言語化できず、体に症状(腹痛や頭痛)として現れるまで抱え込んでしまいます。
親が、子どもの居場所になって、「子どもが自分で人生を生きていけるように。子どもが自らの価値観を考えられるように。」そうなったらよいのにと私は思うのです。
親たちも確固たる価値観が持てていない今、子どもとの対話で人生をどう生きたいかを互いに話していけると良いのですが。答えを出す必要はありません。何が大事だと思っているのか、話しながら見えてくるものがあるはずです。
人生は、みんな平等に時間が過ぎていくものです。困難から逃げずに懸命に生きることで、自ずと自分が大事にしたいことは現れると思います。
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参考&引用文献<土井 隆義『キャラ化する/される子どもたち』 株式会社 岩波書店>

